夢日記

夢がないのにユメちゃん、未来がないのにミラちゃん

シャーリー2号

「寿は長生きという意味、栄は草花が盛んに茂るという意味で、元気にすくすく育ってほしいから、わたしの名前は寿栄子です」
これは、小学二年生のかわいく健気なすえこちゃんが、一晩徹夜してでっち上げた大嘘です。
時代錯誤も甚だしいわたしの名前の本当の由来。それは、母親の「これ以上子供は産みたくない」という決意が“読み”に、父親の「経営している寿司屋が繁盛してほしい」という願いが“漢字”に込められた、それはそれは身勝手なものでありました。
名前とは祈りです。そして祈りとはしつこく繰り返す力です。ひゃくまん・せんまん・いちおくと同じ言葉を言ったり言われたりすることで、祈りは真実になるのです。すえこ。寿栄子。この、あまりにもわたしへの祈りが欠落した、父親と母親の交差しない欲望の結晶。この、しょうもない名前を一生呼ばれ続けるのが、わたしの人生だと気づいたとき、幼いわたしは生まれて初めて、死を願いました。

今度こそ、今度こそ男だろう、と期待をかけられたにも関わらず、わたしは五人姉妹の末っ子として生まれました。
父は酒を飲むたび、しょうもない女腹だと母を罵倒し、殴り、蹴りました。頭から血を流し、全身痣だらけになってもそれでも母は、父の怒りの矛先が五人の娘の誰かに向かいそうになると、わたしたちの前に立ち、両腕を広げて人間の盾となり、父からの暴力を一身に受けました。おかげでわたしたちが父から手を上げられたことは一度もありませんでした。

そんな厳しい環境でたくましく育った四人の姉たちは、いかにすれば父に可愛がられるかを熟知していましたが、末のわたしに限っては、父を前にするとがたがたと震えが始まり、一言も口が聞けなくなってしまうのでした。自分に懐かないわたしを、父はあからさまに邪険に扱いましたが、それでも母は「すえちゃんはみんなの中でいちばんかしこいお顔をしている」「ないしょのおはなしよ?」と耳打ちしては、そっとわたしの頬を撫でてくれました。

あれはいつだかの冬、寝付けぬわたしはお小水に行こうと、子供部屋を抜けて階段を降り、お便所へと向かっていました。
すると、一階の廊下に面した居間から、父が「すえこ、すえこ」と、しきりに口にしているのが漏れ聞こえてきました。わたしはどきりとして立ち止まり、細く空いていた襖の隙間からそっと中を覗きこみました。
「寿栄子はなんだ、あの可愛げのない穀潰しの出来損ないが」
襖の向こうで父はお酒を飲みながら、母に愚痴をこぼしていました。そして、普段なら父の罵りをやんわりと諭しては暴力を受けている母は、眉を下げて、媚びるように唇をすぼめ、相槌を打ちながら父に寄り添っておりました。
それを見た瞬間、わたしはへたへたと崩れ落ちてしまいました。板張りの床にたちまち広がる、匂い立つぬるい水溜り。それを静かに泣きながら、お下がりのパジャマの長すぎる裾で拭っているとき、幼いわたしは再び、自らの死を強く強く願いました。

母を殴り、わたしを抱きしめるのを拒むあの手で、どうして美味しい寿司が握れるのか。父は人間のクズでしたが、父が大将を務める寿司屋は、なぜだかそこそこの人気がありました。
――口に入れた瞬間ほどける シャリとマグロのマリアージュ―― などと言った恥ずかしい煽り文句で、店はちょっとした雑誌やテレビ番組に取り上げられ、客足が途絶えることはありませんでした。
けれども、「女の寿司はまずい」が口癖の父は、わたしたちの中から跡取りを育てる気はありませんでした。「弟子にしてください」という申し出を受け、若い男性が数人、住み込みで働いていたこともありましたが、父の酷い罵声に耐えられず、誰もが一月も持たず逃げ出していく始末でした。

とにかくここから出て行きたい。
時が経てば経つほど、母親似の姉たちは華やかに女らしくなりましたが、わたしの父に似たエラ張りや細い目やひしゃげた鼻は、幼いときよりも明確になっていきました。
父はそんなわたしにゴミを見るような目を向けて、「毎日机に張り付いて気味が悪い」「器量が悪いんだから口紅のひとつでも塗れ」と喚き散らしました。
しかし、わたしは父の言葉を無視して、寝る間も惜しんで勉強を続けました。念願の京都の某大学の工学部機械工学科に合格し、地元を離れたわたしは、卒業後、とある食品機械会社に就職し、エンジニアとして働くようになりました。

社内でわたしが開発・設計に携わった、お寿司のシャリを握るロボット「シャーリー」は爆発的な大ヒットを起こしました。
直径435㎜、高さ380㎜の円筒型、一時間に最大1900個のシャリを生産できるシャーリーは、いかにもロボット然とした従来品とは違い、木桶の形を模し、本体表面には木目があしらわれているため、カウンターの内側に置いてもお店の雰囲気を損ねることはありません。また、シャーリーがぽこぽこ生み出すシャリの温度と硬さは、熟練の職人が握ったそれとほとんど違いがありませんでした。
もはや人間が寿司を握る必要はないと、全国の回転寿司店はこぞってシャーリーを採用しました。ごちそうの代名詞であったお寿司はあっという間にファーストフード化し、機械に寿司が握れるわけがない、とシャーリーを鼻で笑っていた回らないお寿司屋さんはどこもかしこも、みな廃業に追い込まれました。
風の噂によると、わたしの実家の寿司屋はあっさり潰れ、子育てが終わった母親は父親を見捨てて、家を出て行ってしまったそうです。しかし、そんな家庭の細々した悲劇など、わたしにとってはどうでもよいことです。

シャーリーの普及に伴い、銀行口座には信じられないほどの大金が定期的に振り込まれるようになりましたが、わたしは変わらず質素な暮らしを続けました。高価な靴も鞄も洋服も化粧品も、わたしにはさして魅力的に感じられなかったのです。
どんなに足掻いても、若さはいずれ失われます。美しい容貌はもちろん、磨き上げた技術や高尚な知識すらも、ゆっくりとしかし着実に、老いに侵食されていくのです。老いの末にやってくるものは死です。人は死んだら燃やされて、かすかすの灰になるのです。老いに抗えぬ人間が高価できらびやかなモノを身につけても、ただただ虚しいだけではないでしょうか。

付け焼き刃の美しさなどいらない。
わたしが望むものは、永遠の体。永遠の美しさ。永遠の愛。

仕事を辞めたわたしは、半年ほど前に倒産した小さな製作所を買い取りました。夜逃げも同然で潰れたそこには、営業当時に使われていた機械が、ほぼそのままの形で残されておりました。わたしは借りていたマンションを解約してそこに住み込み、全財産を費やして、誰のためでもない、わたしだけのためのロボットを作りました。
切れ長の瞳、もつれるほど長く繊細な睫毛、鷲鼻がかった高い鼻、小鳥のような唇、薔薇色の頬、漆黒の髪、そして、蠟のように滑らかで白く長い指。
これこそがわたしの理想。チタン合金を限りなく肌の質感に近いシリコンで包んだ、人型シャリ握りロボット、シャーリー2号が完成しました。
わたしは眠っているシャーリー2号の空っぽの腹に酢飯を詰め込み、寿司職人風の白い調理衣を着せ、髪を束ね、鉢巻を結い、下駄を履かせました。服の上からでも分かる、少しでっぱったシャーリー2号のお臍を押すと、シャーリー2号はゆっくりと瞼を開き、上体を起こし、小さな唇を動かしました。

「へい、らっしゃい」
「はじめまして、シャーリー2号。わたしの名前はスエコです」
「スエコさん、なにから握りましょうか」
「コハダがいい。でも、その前に、わたしを抱きしめてもらえますか」

シャーリー2号は、しばし考えるかのように静止しましたが、躊躇いなく腕をこちらに伸ばします。シャーリー2号の手は寿司職人の手にふさわしく、ひんやりとしていて、人間のそれよりもよっぽど心地よい。
わたしは完全無欠の愛しい機械の腕の中で、うっとりと目を閉じるのでした。