夢日記

夢がないのにユメちゃん、未来がないのにミラちゃん

携帯小説

その日、僕は四条木屋町のバーにいました。
バーと言ってもそこはチャージが三百円、カクテル一杯二百円の、とんでもない安酒屋です。いったいどうやって利益を出しているのでしょう。
僕はカウンターでサイドカーというカクテルを飲んでいました。ブランデーベースのものをメニューの順番に頼んでいたのです。それはちょうど上から三番目にありました。
少しずつ舐めるように度数の強い酒を飲んでいると、胃の中が花が咲いたように温かくなります。それでも僕の心はさみしくてどうしようもない。体が温かいのに心が冷たいとはどういうことなのでしょう。
店内はやかましい大学生でひしめきあっていて、だれも僕のようなものはおりません。グラスの中に四割ほど残った茶色い液体をぼんやりと眺めていると、カラリコロリと入口のベルが鳴りました。


「一人です」
そう言うと、縦に釦をずらりと並んだ黒いワンピースを翻し、彼女は僕の隣に腰かけました。そして迷いなく僕に問いかけました。
「君はなにを飲んでいるの?」
髪を肩で切り揃えた、薄いまぶたの美しい人でした。
サイドカーです」
こんなところではこのようなコミュニケーションの方法があるのかしらと思い、少し吃りながらそう答えると、彼女はくすくすと笑い始めました。
「君は自分で自分をおとすの?」
「どういうことですか?」
「それは、女の子を自分のものにしたいときに飲ませるカクテル、飲みやすくて度数が高いから」
途端に僕の頬は熱くなりました。
「ねえ、私はxyzをお願いします」
彼女はそうカウンターに注文をした後、僕にほほえみました。
「初めまして、今日はなにもかもおしまいにしたい日なの」


それから彼女と僕は話をしました。
お酒のせいか、彼女の相槌が的確なせいか、僕はいつもより饒舌になっていました。
普段はほとんどお酒を飲まないこと、お酒の名前がわからないけれどブランデーの入った焼菓子が好きなので、ブランデーベースのお酒を頼んでいること。映画と本が好きなこと、大学で英米文学を専攻していること、そこで友達がいないこと。
彼女は僕の話を頷きながら聞きました。
「君はかわいそう」
「そうですか?」
「かわいそうな状態に慣れてる」
「そうなのかもしれません」
「私はラムが好きなの、君の真似をして、上から順番にラムを飲む」
そうして彼女は、メニューを手に取り、一杯ずつ注文を始めました。短い爪に深い緑のマニキュア。
彼女は幾つくらいだろうと不意に思いました。大学生ではない、僕と同じか少し上に見える。躊躇いながら歳を聞くと、彼女は二十七だと答えました。
「そうは見えません」
「働いてないと、年を取らないの」
彼女はそう言って笑いました。
ラムバック、ラムコリンズ、キューバリバー、モヒート、ダイキリ、メアリーピックフォード、
「それ、アメリカの映画女優の」
「そうなの?」
「まだ無声映画だった頃の、名女優の名前です」
「そうなんだね」
アメリカの恋人って呼ばれてたんです」
彼女はにこにこして僕の話を聞きながら、底無しバケツのように、とんでもないペースでお酒を飲み続けます。僕は少し心配になりました。
「大丈夫ですか?」
「言ったじゃない、順番に飲むって」
サンチャゴ・デ・クーバ、クレオパトラ、マイアミ、
「それより、君の好きな映画の話をしてよ」
僕は、先日観たジョナス・メカスの話をしました。リトアニアからアメリカに難民として入国して映画を撮ったこと。アメリカのインダストリアル映画の巨匠であり、ほんの最近に死んだこと。荒神口の本屋でひそやかに追悼の上映会がなされたこと。


「なんて映画をみたの?」
「『Sleepless Nights Stories』です」
「いいタイトル、いいお話だった?」
「みんな寝てる、みんな寝てる、って言ってるメカスの声から始まる、ぽつぽつと記憶の断片を思い出すようなお話です。面白いというよりは、タイトルとは違っていい意味で眠たくなる、観ていて心地のよくなる映画でした」
「今晩、私たちは起きていましょうね」
「はい」
僕の心の中の固く冷たいさみしさはいつの間にか溶けて、代わりに小さな高揚が居座りました。


カリブ、バカルディ、十二あるラムのカクテルの全てを飲み干した彼女は、
「ねえ、君の連絡先を教えてよ」
と言いました。
僕は鞄から携帯を取り出しました。
「すごい、未だにスマートフォンじゃないんだね」
「親がお金を支払ってるから、変えたいと言い出せないんです」
「いいこだね、君は」
彼女は僕の携帯にアドレスを打ち込むと、名前のところで少し戸惑いました。
「あなたは、なんという名前なんですか」
「ミサ、美しい砂と書いて美砂」
「綺麗な名前です」
「母が鳥取砂丘で産気付いたから、こんな名前になっちゃった」
「ほんとですか」
「嘘」
「一瞬、信じてしまいました」
「君の名前はなんというの」
「ワタルです、船で航海するの航で、ワタルです」
彼女は一呼吸置いて、答えました。
「とっても、いい名前だね」


それから彼女とは毎日メールを交わしました。『おはよう』『おやすみ』といった些細なものでしたが。
朝日が昇りはじめるころ、僕は遮光カーテンをきつく閉めます。けれども眠ることはありません、そうしてコーヒーを五杯も十杯も飲みながら、なんとか正気を保つのです。
彼女の『おはよう』にまんじりと起きることも眠ることのできない僕は、しばらく時間をあけてから『おはよう』と返事を送っておりました。
嘘つきめ、嘘つきめ、と僕は自分を責めます。けれどもこの些細なやりとりが僕を救っていたことも、また事実なのです。


僕の学校生活には大いなる問題がありました。
なにもかもがこんがらがった現在の一番の問題に思えることは、選ぶゼミを間違えたということです。現代文芸を扱うそこはなぜかほとんどが留学生で、みなが三か国以上を操る中、かろうじて英語のみがわかる自分がゼミに通うのが、僕は本当に苦痛でした。
特に、鄭という中国からの留学生は、イケメン扱いされているけれどよく見ると大して綺麗な顔立ちをしているわけでもなくて、そのくせそんな彼がとんでもないシネフィルだということが僕を苛立たせました。
中高一貫の男子校に入り、一心不乱、マシンのように勉強していた僕は、無事志望校に合格した後に、愕然としました。みなさんはそれぞれ麻雀やらビリヤードやらお酒やら恋愛やら、面白いことを知っているのに、僕に限ってはイスラームの派遣争いや数学の定理ばかりしか知りませんでした。これではいけないとなにかに興味を持とうとすればするほど、そこから色彩が抜け落ちていきました。大学には、好きだった本も映画も僕以上に詳しい人間はごまんといました。
それが原因なのか、自分でもよくわかりませんが、僕はうつ病を患い大学を二留しました。だから周囲に友達がいないのです。単位は取れているのに、どんなに頑張ってもあのゼミに通うことができず、卒論が書きあがりませんでした。
大学を卒業したところで、どうなるわけでもありません。悲観的になっている僕を、彼女は適度な距離で励ましてくれました。


『君なら書けるよ』
『わたしはわかる』


僕はその言葉を鵜呑みにして、メカスとゲリンの往復書簡を元にした卒論を、七月の末に完成させました。


『卒論が書けました、秋卒業ができそうです、美砂さんのおかげです』


そうメールを送ると、彼女は、
『おめでとう、書けると思っていた』
と返事をよこしました。


『美砂さんのことが好きです』
僕はこの短い文章を何度も打ち直しました。そして、震える指で、メールを送りました。
返事はすぐにかえってきました。


『知ってるよ』
『そして、わたしも君が好き』


なぜでしょう、その文字列を見た瞬間、あのバーで一人でカクテルを飲んでいたときのことを思い出しました。
しかし、おとされたのは僕でした。
僕はこれまで女の人と同じ量の好意を持ちあったことがありませんでした。誰かを好きであることは、誰かに好かれるということは、こんなにも幸福なことであるのですね。
いままで紗のかかっていたようにぼんやりと色褪せていた世界が途端に鮮明に見えました。木の葉の一枚一枚が輪郭を持ち、光って見える、今までにないことでした。


彼女は相変わらず僕に、朝晩の挨拶や、今日食べたものの話、道で見た猫の話、歯磨き粉をいつもと違うメーカーに変えた話などを送ってきました。
いったい彼女はどうやって生活をしているのだろう。僕は疑問に思い、彼女に問いを送りました。
『君は本当に働いていないのですか?』
『実家が太いの』
『差し支えなければ、なにをされているんですか』
『お父さんがデンティストをしています』
『それはすごい』
『父は母と離婚して、再婚して。でも、義理の母とわたしは折り合いが悪いの、だから、大学と同時に京都へ出てきて』
『うん』
『そのまま仕送りで生活をしています』


彼女が、
『君の下宿に行ってもいい?』
と訊ねたのは、八月の初めのことでした。
『いいですよ』
僕は戸惑いながらも、そう答えました。
じりじりと焼けつくような日差しの中、スーパーでたくさんお菓子やジュースを買い込んで、僕らは僕の下宿へと向かいました。鍵を開け、電気とエアコンをつけます。
「意外と散らばっていない、というか、ものがないのね」
そう言うと、彼女はくつろいだ様子でベッドに腰かけました。
「そんなに綺麗にしていないので」
僕が慌ててそう言うと、彼女はくすくすと笑い、僕の枕に顔を埋めました。
「これ、君の匂いがする」
僕の顔がかっと熱くなったのがわかりました。
「隣へおいでよ」
彼女はいつのまにか自分のものであるかのように身に纏っていた僕のタオルケットを、ぺらりとめくってそう言いました。
「はい」
僕は言われるがまま、彼女の横に移動しました。彼女は僕にぐっと体を寄せました。


「しりとりをしましょう」
「いいですよ、でもどうして」
「しりとりが好きなの」
「わかりました、では美砂さんから」
「夏」
「積み木」
「キツツキ」
キリマンジャロ
「ロケット」
「トリック」
「樟葉」
「ハモ」
「もちつき」
「キツツキ」
「だめです、キツツキはさきほどわたしが言いました」
「ぼんやりしていました」
「しりとりは真剣勝負なのに」
「そうなんですか」
「罰です」
彼女は僕の額を人差し指ではじきました。
「痛い」
「そうでしょう」
彼女はにこにこしてそう言いました。
「痛くないこともしてあげます」
彼女は僕の首筋を、僕を罰した人差し指でそっと撫でました。
「あっ」
僕の口から、おかしな声が漏れました。それから彼女は僕の首筋を下からつうっと舐め上げ、をしゃぶりました。ぴちゃぴちゃという水音が大きく聞こえます。彼女の舌と唾液が僕の耳朶をおかしてゆく。僕はそれだけで、気がおかしくなりそうでした。
「今日は、これでおしまい」


この日から彼女は頻繁に僕の下宿に訪れるようになりました。そして、そこから僕をベッドに誘うという一連の流れ、おしまいへの時間はどんどんと長くなっていきました。
彼女はいつも、釦のたくさんついたワンピースを着ていて、その下は黒い豪奢な下着をつけていました。肌着の類は着ないようでした。
服を脱いだ彼女は、ジョン・コリアの描いた『リリス』を彷彿とさせました。違うのは髪の色と長さくらいで、なにかを、自らをも破滅させてしまうような、張り詰めたものにより生まれる美しさがありました。
僕たちは、がらんどうの下宿で、怠惰な生活をしばらく続けておりました。


夏休みの半ば、借りたい本があるため大学に行った僕は、向かいからやってきたゼミの指導教官に声をかけられました。
「お久しぶり」
「お久しぶりです」
「航くんはまもなく卒業予定だけれど、その後どうするつもりなの」
「なにも、考えていません」
僕は素直に答えました。
「今ならまだ間に合う」
教官は有無を言わさず、僕を生協の二階へと連れていきました。
そこは就活生のためのスーツ売り場となっていて、僕は教官の言うがままにちらほらと売れ残っていた中から、体に合うスーツとシャツとネクタイと鞄と革靴を買い、クレジットカードで会計を済ませました。
そうして、勧められるがままに、就活サイトに登録をし、まだ募集をかけていた学習塾にエントリーをしました。書類審査は通り、易しい英語の試験を解き、最終面接では面接官と出身高校が同じであることが判明し、雑談のような話が盛り上がって終わりました。
結果は受かっていました。僕は春から英語の先生になることが決まりました。


彼女は僕の内定を祝ってくれました。小さなチョコレートケーキを焼いて僕の下宿に来た彼女は、それを小さなナイフと一緒にがたがたするちゃぶ台の上に置いて、二人でお祝いをしました。
「君は先生になるんだね」
「全然実感がわかないです」
「話すのが上手だから大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
「京都を去るの?」
「わかりません、全国に支社があるのですが、まだどこに配属されるかは決まってなくて」
「行ってしまうのはさみしいな」
「僕と一緒に来ればいいです」
彼女はなにか言い淀み、それから口を閉じました。


それから端的に言うと、僕は彼女を捨てました。
彼女はなにもかもが嘘でした。彼女が高島屋の脇にある、ファッションヘルスに入っていったのを僕は目にしてしまったのです。
その晩、僕は彼女を問い詰めました。彼女はすべてを答えました。
身寄りがないこと。精神を患っていて障害年金を貰いつつ、月に何度か売春をして糊口を凌いでいること。三十二歳であること、本当の名前は美砂でなく岬ということ。


みんなが旅立っていくこの名前は嫌いだと、最後に彼女は言いました。
いつだったか一度、彼女は僕の名前を謗ったことがあります。


「航、どこにも行かないで、行くならば、君の船が嵐にあえばいいのに」