夢日記

夢がないのにユメちゃん、未来がないのにミラちゃん

バー無明(むみょう)の夢

テレビを見ていると、バー無明(むみょう)というものが出てくる。東京?にあるシェアハウスの一角、地下ガレージのようなところを解放しているという。一面コンクリート張りの床に大きなブルーシートを敷いた空間。もちろんカウンターなどもなく、バーには見えない。ここは好きに使うことができ、名前の通りみんなで酒を飲もうが、寝泊まりに使おうが、演劇などをしようが、自由らしい。最近の若者は面白くていいですねといったコメント。わたしは興味を持ち、代表者にコンタクトを取り、ある日の朝方にバー無明に行く。そこにはよれたTシャツ姿の男が数人いて、それぞれ餡掛けオムライスをよそって取っていっていた。朝食だろうか。とても美味しそうだ。わたしは月に×万円なら出せるのだがここに住むのは厳しいか、またみんな食事はどうしているのかと訊ねる。代表者はその金額だとちょっと苦しいね、と言い、食事はどうしても困っている人は僕は長野出身だから長野の料理を作って食べさせます、いや、食べさせるという言い方はよくないな、と訂正する。誠実な人だと思う。わたしは先日、旅行で長野に行ってきたのですと伝えようとするが、うれしさのせいか声がうまく出ない。

父の夢

0522


家から本当にお金がなくなってしまった。薄暗い飲食店が集まったフードコートのような所で働く。わたしは白い三角巾をつけている。仕事が終わって父を迎えに行く。父は鮮魚コーナーで働いている。ショーウィンドウには大きなマグロの入った海苔巻き。父は店の奥でしゃがみ込んでいるのが見える。わたしが父を呼ぶと、お土産だと言って店長から米と袋に入った林檎をもらう。米は都からの配給で山ほどあるのに。一応ありがとうございましたと言う。店の外を出て林檎を齧る。歯にねちゃねちゃとくっつく。江ノ島で取れるものらしいがすこしもおいしくない。これはきっと米もおいしくないと予感する。帰宅すると、遅れて父が帰ってくる。マグロやサーモンの入った海苔巻きなどをたくさん持ち帰っている。覚えることが多すぎるんだ、と父は元気がない。わたしはそれを励ます。これは作り話なのだ。紙の台本を読む。「神様なんか金魚でいい」「わたしたちがしたくないのは長いお別れでしょ」と言う。まだ台詞は続くが、忘れてしまった。

携帯小説

その日、僕は四条木屋町のバーにいました。
バーと言ってもそこはチャージが三百円、カクテル一杯二百円の、とんでもない安酒屋です。いったいどうやって利益を出しているのでしょう。
僕はカウンターでサイドカーというカクテルを飲んでいました。ブランデーベースのものをメニューの順番に頼んでいたのです。それはちょうど上から三番目にありました。
少しずつ舐めるように度数の強い酒を飲んでいると、胃の中が花が咲いたように温かくなります。それでも僕の心はさみしくてどうしようもない。体が温かいのに心が冷たいとはどういうことなのでしょう。
店内はやかましい大学生でひしめきあっていて、だれも僕のようなものはおりません。グラスの中に四割ほど残った茶色い液体をぼんやりと眺めていると、カラリコロリと入口のベルが鳴りました。


「一人です」
そう言うと、縦に釦をずらりと並んだ黒いワンピースを翻し、彼女は僕の隣に腰かけました。そして迷いなく僕に問いかけました。
「君はなにを飲んでいるの?」
髪を肩で切り揃えた、薄いまぶたの美しい人でした。
サイドカーです」
こんなところではこのようなコミュニケーションの方法があるのかしらと思い、少し吃りながらそう答えると、彼女はくすくすと笑い始めました。
「君は自分で自分をおとすの?」
「どういうことですか?」
「それは、女の子を自分のものにしたいときに飲ませるカクテル、飲みやすくて度数が高いから」
途端に僕の頬は熱くなりました。
「ねえ、私はxyzをお願いします」
彼女はそうカウンターに注文をした後、僕にほほえみました。
「初めまして、今日はなにもかもおしまいにしたい日なの」


それから彼女と僕は話をしました。
お酒のせいか、彼女の相槌が的確なせいか、僕はいつもより饒舌になっていました。
普段はほとんどお酒を飲まないこと、お酒の名前がわからないけれどブランデーの入った焼菓子が好きなので、ブランデーベースのお酒を頼んでいること。映画と本が好きなこと、大学で英米文学を専攻していること、そこで友達がいないこと。
彼女は僕の話を頷きながら聞きました。
「君はかわいそう」
「そうですか?」
「かわいそうな状態に慣れてる」
「そうなのかもしれません」
「私はラムが好きなの、君の真似をして、上から順番にラムを飲む」
そうして彼女は、メニューを手に取り、一杯ずつ注文を始めました。短い爪に深い緑のマニキュア。
彼女は幾つくらいだろうと不意に思いました。大学生ではない、僕と同じか少し上に見える。躊躇いながら歳を聞くと、彼女は二十七だと答えました。
「そうは見えません」
「働いてないと、年を取らないの」
彼女はそう言って笑いました。
ラムバック、ラムコリンズ、キューバリバー、モヒート、ダイキリ、メアリーピックフォード、
「それ、アメリカの映画女優の」
「そうなの?」
「まだ無声映画だった頃の、名女優の名前です」
「そうなんだね」
アメリカの恋人って呼ばれてたんです」
彼女はにこにこして僕の話を聞きながら、底無しバケツのように、とんでもないペースでお酒を飲み続けます。僕は少し心配になりました。
「大丈夫ですか?」
「言ったじゃない、順番に飲むって」
サンチャゴ・デ・クーバ、クレオパトラ、マイアミ、
「それより、君の好きな映画の話をしてよ」
僕は、先日観たジョナス・メカスの話をしました。リトアニアからアメリカに難民として入国して映画を撮ったこと。アメリカのインダストリアル映画の巨匠であり、ほんの最近に死んだこと。荒神口の本屋でひそやかに追悼の上映会がなされたこと。


「なんて映画をみたの?」
「『Sleepless Nights Stories』です」
「いいタイトル、いいお話だった?」
「みんな寝てる、みんな寝てる、って言ってるメカスの声から始まる、ぽつぽつと記憶の断片を思い出すようなお話です。面白いというよりは、タイトルとは違っていい意味で眠たくなる、観ていて心地のよくなる映画でした」
「今晩、私たちは起きていましょうね」
「はい」
僕の心の中の固く冷たいさみしさはいつの間にか溶けて、代わりに小さな高揚が居座りました。


カリブ、バカルディ、十二あるラムのカクテルの全てを飲み干した彼女は、
「ねえ、君の連絡先を教えてよ」
と言いました。
僕は鞄から携帯を取り出しました。
「すごい、未だにスマートフォンじゃないんだね」
「親がお金を支払ってるから、変えたいと言い出せないんです」
「いいこだね、君は」
彼女は僕の携帯にアドレスを打ち込むと、名前のところで少し戸惑いました。
「あなたは、なんという名前なんですか」
「ミサ、美しい砂と書いて美砂」
「綺麗な名前です」
「母が鳥取砂丘で産気付いたから、こんな名前になっちゃった」
「ほんとですか」
「嘘」
「一瞬、信じてしまいました」
「君の名前はなんというの」
「ワタルです、船で航海するの航で、ワタルです」
彼女は一呼吸置いて、答えました。
「とっても、いい名前だね」


それから彼女とは毎日メールを交わしました。『おはよう』『おやすみ』といった些細なものでしたが。
朝日が昇りはじめるころ、僕は遮光カーテンをきつく閉めます。けれども眠ることはありません、そうしてコーヒーを五杯も十杯も飲みながら、なんとか正気を保つのです。
彼女の『おはよう』にまんじりと起きることも眠ることのできない僕は、しばらく時間をあけてから『おはよう』と返事を送っておりました。
嘘つきめ、嘘つきめ、と僕は自分を責めます。けれどもこの些細なやりとりが僕を救っていたことも、また事実なのです。


僕の学校生活には大いなる問題がありました。
なにもかもがこんがらがった現在の一番の問題に思えることは、選ぶゼミを間違えたということです。現代文芸を扱うそこはなぜかほとんどが留学生で、みなが三か国以上を操る中、かろうじて英語のみがわかる自分がゼミに通うのが、僕は本当に苦痛でした。
特に、鄭という中国からの留学生は、イケメン扱いされているけれどよく見ると大して綺麗な顔立ちをしているわけでもなくて、そのくせそんな彼がとんでもないシネフィルだということが僕を苛立たせました。
中高一貫の男子校に入り、一心不乱、マシンのように勉強していた僕は、無事志望校に合格した後に、愕然としました。みなさんはそれぞれ麻雀やらビリヤードやらお酒やら恋愛やら、面白いことを知っているのに、僕に限ってはイスラームの派遣争いや数学の定理ばかりしか知りませんでした。これではいけないとなにかに興味を持とうとすればするほど、そこから色彩が抜け落ちていきました。大学には、好きだった本も映画も僕以上に詳しい人間はごまんといました。
それが原因なのか、自分でもよくわかりませんが、僕はうつ病を患い大学を二留しました。だから周囲に友達がいないのです。単位は取れているのに、どんなに頑張ってもあのゼミに通うことができず、卒論が書きあがりませんでした。
大学を卒業したところで、どうなるわけでもありません。悲観的になっている僕を、彼女は適度な距離で励ましてくれました。


『君なら書けるよ』
『わたしはわかる』


僕はその言葉を鵜呑みにして、メカスとゲリンの往復書簡を元にした卒論を、七月の末に完成させました。


『卒論が書けました、秋卒業ができそうです、美砂さんのおかげです』


そうメールを送ると、彼女は、
『おめでとう、書けると思っていた』
と返事をよこしました。


『美砂さんのことが好きです』
僕はこの短い文章を何度も打ち直しました。そして、震える指で、メールを送りました。
返事はすぐにかえってきました。


『知ってるよ』
『そして、わたしも君が好き』


なぜでしょう、その文字列を見た瞬間、あのバーで一人でカクテルを飲んでいたときのことを思い出しました。
しかし、おとされたのは僕でした。
僕はこれまで女の人と同じ量の好意を持ちあったことがありませんでした。誰かを好きであることは、誰かに好かれるということは、こんなにも幸福なことであるのですね。
いままで紗のかかっていたようにぼんやりと色褪せていた世界が途端に鮮明に見えました。木の葉の一枚一枚が輪郭を持ち、光って見える、今までにないことでした。


彼女は相変わらず僕に、朝晩の挨拶や、今日食べたものの話、道で見た猫の話、歯磨き粉をいつもと違うメーカーに変えた話などを送ってきました。
いったい彼女はどうやって生活をしているのだろう。僕は疑問に思い、彼女に問いを送りました。
『君は本当に働いていないのですか?』
『実家が太いの』
『差し支えなければ、なにをされているんですか』
『お父さんがデンティストをしています』
『それはすごい』
『父は母と離婚して、再婚して。でも、義理の母とわたしは折り合いが悪いの、だから、大学と同時に京都へ出てきて』
『うん』
『そのまま仕送りで生活をしています』


彼女が、
『君の下宿に行ってもいい?』
と訊ねたのは、八月の初めのことでした。
『いいですよ』
僕は戸惑いながらも、そう答えました。
じりじりと焼けつくような日差しの中、スーパーでたくさんお菓子やジュースを買い込んで、僕らは僕の下宿へと向かいました。鍵を開け、電気とエアコンをつけます。
「意外と散らばっていない、というか、ものがないのね」
そう言うと、彼女はくつろいだ様子でベッドに腰かけました。
「そんなに綺麗にしていないので」
僕が慌ててそう言うと、彼女はくすくすと笑い、僕の枕に顔を埋めました。
「これ、君の匂いがする」
僕の顔がかっと熱くなったのがわかりました。
「隣へおいでよ」
彼女はいつのまにか自分のものであるかのように身に纏っていた僕のタオルケットを、ぺらりとめくってそう言いました。
「はい」
僕は言われるがまま、彼女の横に移動しました。彼女は僕にぐっと体を寄せました。


「しりとりをしましょう」
「いいですよ、でもどうして」
「しりとりが好きなの」
「わかりました、では美砂さんから」
「夏」
「積み木」
「キツツキ」
キリマンジャロ
「ロケット」
「トリック」
「樟葉」
「ハモ」
「もちつき」
「キツツキ」
「だめです、キツツキはさきほどわたしが言いました」
「ぼんやりしていました」
「しりとりは真剣勝負なのに」
「そうなんですか」
「罰です」
彼女は僕の額を人差し指ではじきました。
「痛い」
「そうでしょう」
彼女はにこにこしてそう言いました。
「痛くないこともしてあげます」
彼女は僕の首筋を、僕を罰した人差し指でそっと撫でました。
「あっ」
僕の口から、おかしな声が漏れました。それから彼女は僕の首筋を下からつうっと舐め上げ、をしゃぶりました。ぴちゃぴちゃという水音が大きく聞こえます。彼女の舌と唾液が僕の耳朶をおかしてゆく。僕はそれだけで、気がおかしくなりそうでした。
「今日は、これでおしまい」


この日から彼女は頻繁に僕の下宿に訪れるようになりました。そして、そこから僕をベッドに誘うという一連の流れ、おしまいへの時間はどんどんと長くなっていきました。
彼女はいつも、釦のたくさんついたワンピースを着ていて、その下は黒い豪奢な下着をつけていました。肌着の類は着ないようでした。
服を脱いだ彼女は、ジョン・コリアの描いた『リリス』を彷彿とさせました。違うのは髪の色と長さくらいで、なにかを、自らをも破滅させてしまうような、張り詰めたものにより生まれる美しさがありました。
僕たちは、がらんどうの下宿で、怠惰な生活をしばらく続けておりました。


夏休みの半ば、借りたい本があるため大学に行った僕は、向かいからやってきたゼミの指導教官に声をかけられました。
「お久しぶり」
「お久しぶりです」
「航くんはまもなく卒業予定だけれど、その後どうするつもりなの」
「なにも、考えていません」
僕は素直に答えました。
「今ならまだ間に合う」
教官は有無を言わさず、僕を生協の二階へと連れていきました。
そこは就活生のためのスーツ売り場となっていて、僕は教官の言うがままにちらほらと売れ残っていた中から、体に合うスーツとシャツとネクタイと鞄と革靴を買い、クレジットカードで会計を済ませました。
そうして、勧められるがままに、就活サイトに登録をし、まだ募集をかけていた学習塾にエントリーをしました。書類審査は通り、易しい英語の試験を解き、最終面接では面接官と出身高校が同じであることが判明し、雑談のような話が盛り上がって終わりました。
結果は受かっていました。僕は春から英語の先生になることが決まりました。


彼女は僕の内定を祝ってくれました。小さなチョコレートケーキを焼いて僕の下宿に来た彼女は、それを小さなナイフと一緒にがたがたするちゃぶ台の上に置いて、二人でお祝いをしました。
「君は先生になるんだね」
「全然実感がわかないです」
「話すのが上手だから大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
「京都を去るの?」
「わかりません、全国に支社があるのですが、まだどこに配属されるかは決まってなくて」
「行ってしまうのはさみしいな」
「僕と一緒に来ればいいです」
彼女はなにか言い淀み、それから口を閉じました。


それから端的に言うと、僕は彼女を捨てました。
彼女はなにもかもが嘘でした。彼女が高島屋の脇にある、ファッションヘルスに入っていったのを僕は目にしてしまったのです。
その晩、僕は彼女を問い詰めました。彼女はすべてを答えました。
身寄りがないこと。精神を患っていて障害年金を貰いつつ、月に何度か売春をして糊口を凌いでいること。三十二歳であること、本当の名前は美砂でなく岬ということ。


みんなが旅立っていくこの名前は嫌いだと、最後に彼女は言いました。
いつだったか一度、彼女は僕の名前を謗ったことがあります。


「航、どこにも行かないで、行くならば、君の船が嵐にあえばいいのに」

 

 

修学旅行の夢

313

 

東京かと思ったら修学旅行がベトナムだった。お座敷遊びでは男の子がロケットになり、金を打ち上げる銃で紙幣が飛び交う。わたしだけ日本円しか持っていない。みんなに訊ねると二十万円から五十万円は持ってきているとのこと。わたしはお金を両替しようとするが、乱立するそれはどこも怪しい。レートもわからない。

お笑いライブの夢

650


わたしはAに誘われて演劇を観にいく。演劇と聞いたがそれはお笑いで、1LDKの部屋で無名の若手の芸人が入れ替わり立ち替わりコントをする。
わたしはエリザベスワンピースを着て、下手最前列にいたのだけれど、イベントの主催者かつ芸人であるBに、異様なほどの客いじりをされる。具体的には物で思い切り叩かれるなど。わたしはびっくりするが空気を読んでいたーい!などとリアクションする。
マチネ(という表現でいいのだろうか)が終わると、Bと話すことになる。お笑いを観たことがあるかという話になり、Cのライブに一度行ったことがあると答える。Bはプライドを損なった顔をする。CはBと同じ大学の出身だが、若手の中ではかなり知名度があり、今ではセミプロのような存在だ。Aがわたしもライブを観たいと言い始める。Aは演者の後ろでスカートをたくし上げて、偽物の男性器を見せつけるなどのパフォーマンスをしていた。Dがそれを許可する。Aは限りなくステージ上でお笑いを観ることになる。
ソワレが始まると、Aは大人のおもちゃを膣に入れ、激しく出し入れする。Aの股間から大量の液体が吹き出る。わたしはとても不快な気分になり、しばらくしてから彼女をキッチンに連れて行き、止める。こんなのパフォーマンスじゃないでしょう? 彼女はマチネでわたしのパフォーマンスをあれだけ観て、これを止めるのはハラスメントだと主張する。わたしはなんでもハラスメントと言えばいいと思うな、と言い返す。その間ずっとビデオカメラがAを向いている。これすら自らのパフォーマンスにするらしい。Aは怒りながらベランダへ出ていく。Aは全裸になり、ジプレキサの大きな錠剤をオーバードーズしはじめる。腕にはたくさんの切り傷。わたしはおまえは過激なことをするばかりでつまらない、リストカットオーバードーズ、服を脱いでいるが体型だって美しくない、腕と足は骨が浮くほど痩せているのに、胸から腹の下にかけてはだらしない、とAをさらに責める。
腕と足は細くて綺麗だけど、と言い直すと、Aはわたしの方へ駆け出し、わたしを抱きしめる。わたしの目の位置にAの頭がきて、わたしより背が低いなあと思う。これからもずっと一緒にいようね、というようなことを笑顔で言われるが、声が不明瞭で聞き取れず、二度三度聞き直す。彼女は同じ言葉を繰り返す。

ハッピーバースデーの歌、届かない手紙の夢

550


木には白い花と一緒に大きな松ぼっくりがついている。雪のように一面を白く染める。わたしは昨日ここで白いリュックサックを無くした気がするのだけど見つからない。鳩がものを食べている。近くからハッピーバースデーの歌が聞こえる。子供ではなく大人の声だ。終わったら、落ち着いた女性の食前の祈りが始まる。

 

843


わたしたちの寄宿舎では、届いた手紙は集められ、朝礼の後にまとめて配られる。わたしの机に、茶色い封筒が置かれて、戒められる。「好きな人に届くべき」とはなんですか? わたしは宛先にそう書いていた。そしてこれは好きな人に届くべきだが、自分に転送されるのが相応しい内容です、と述べる。先生は呆れている。

 

1019


今日の美術の授業では、肖像画を描かないといけないのに、若いときの母親の写真を忘れてしまった。わたしが幼いときの写真ばかり手元にある。カメラに向かって撮って撮ってと動き回る子供だったんですよ、という母の声がブース越しに聞こえる(ここでは生活する場所と寝る場所がすこぶる小さい枠で囲まれている、地面には火を使う虫除け、夏には南京虫は出るのだろうか)部屋の隅に押し込まれたアンジェリックプリティのギンガムチェックのスカートを拾い上げる。美術の教室で座っていると、白無垢を着た先生が入ってくる。わたしは口に入れていたものをいちご柄のハンカチに吐き出す。白かったそれは、茶色く染まっている。

 

「かみさまがいるもの」

あんたの家は愛真教っていう変な宗教を信じてた。

教祖はフォーチュンラブ様という全身ピンクの服着たデブのおばさんで、誰がそんなん信じるん? と思ったけどなんでかこんな片田舎にも、愛の家(ラブハウスって呼ばれてた)という宗教施設があって、ちょろちょろ人が出入りしてた。老若男女みんな薄ピンクの服着てた。白いシャツと赤いハンカチ洗ったときに、白いシャツがちょっと染まっちゃったような、そんな色。なんか聞いたところやと、教祖はどぎついピンクで、幹部は普通のピンクで、ただの信者はほんのりピンクの服を着るとのことだった。あほくさ。

 

あんたが引っ越してきたとき、クラス全員がびっくりした。

頭から爪先まで全身ピンクの女の子が教壇に立ってたから。名前を書いてと先生に促されたら、ピンクのチョークででっかく「桃井愛」って書いた。

ええっ、まじか、白じゃなくピンクでっておののいたし、その名前、漫画の主人公やん。

あんたは髪の毛こそ黒だったけど、ヘアピンもブラウスもスカートも靴下も上履きも全部ピンクだったし、そのピンクのチョークを握りしめた爪にもピンクのマニキュアが塗られてた。さっき言ったほんのりピンクじゃなくて普通の人がピンクって言われたらまあ想像するような、クーピーの中のピンク色みたいな、はっきりしたピンク。だからとにかくめちゃくちゃ目立った。

お調子者のフジタクが手を上げて、

「桃井さんはなんで全身ピンクなんですかー?」

って、質問した。

そしたらあんたは言い切った。

「かみさまがいるもの」

 

あんたは給食を食べなかった。

代わりによくわからないピンクのウィダーインゼリーみたいなのを飲んでた。

「なにそれ?」

って、聞いたら、

「ラブエナジーフードドリンク」

って、返された。

「なんなんそれ?」

って、聞いたら、飲み終わったパッケージをよこしてきた。それ一パックで人間が一日に必要なすべての栄養と愛が摂取できるらしい。

「ほんまに?」

「ほんまに」

その目は特別濁ってるわけでも透き通ってるわけでもなく、今日の給食カレーらしいよ、そうなん、という会話をしてるときみたいな、完全に当たり前の話をしているときの目だった。

 

あんたのお母さんが「ピンク」で働いてることはみんな知ってた。

あんたと同じ全身ピンクの服装でピンクに行くからバレバレだった。ピンクっていうのは、わたしたちの町からすこし温泉の方に向かった風俗街。かつては「桃色新地」って言われてたらしいけど、今ではもうみんな短くピンクって呼んでた。

「あんたの母さんピンクの服でピンクに行くんやな」

って、ヤマケンがはやしたてた。

あんたは口から上の筋肉を一ミリも動かさずに、

「かみさまがいるもの」

と、言った。

「かみさまはいろんな男とズッコンバッコンしてもいいって言うてるん?」

と、ヤマケンがあおった。取り巻きの男子が腰を振っておどけた。

「お母さんは愛を売ってる、かみさまはそれを祝福される、なにが悪いの」

わたしたちはあんたが単語じゃなく文章でしゃべるのを初めて聞いたから、みんなぽかんとして、その場は妙にしんとなっておしまいになった。

 

あんたがあんまりにもかみさまかみさま言うから、わたしは愛真教にちょっと興味を持った。

愛真教のホームページはスマホで検索したらすぐに出てきた。そこには通信販売のコーナーがあって、ラブペンダントやらラブステッカーやらラブウォーターやら胡散臭いものがあったけど、すべてのデザインがピンクで統一されてて目がちかちかした。

それで、例のラブエナジーフードドリンク、一パック七千円だった。一箱じゃなく一パック。週に五日、ざっくり二十日学校があるのだとしたら、あんたはひとりで十四万円分のラブエナジーフードドリンクを飲んでることになるという計算。お母さんも飲むんやとしたらその倍? いや、土日もあるし、とにかく、あんたの家は食事だけで月に三十万円くらい使ってるのがわかった。愛真教を信じるのはめちゃくちゃお金がかかるっぽい。

教義ってところを押したら、あのピンクづくめのデブのおばさんの写真の下に「愛は世界を救う」って書いてあった。あほくさ。「金はブタを救う」の間違いやろって思った。

 

あんたのお母さん、逮捕されちゃった。

夕ご飯の前、適当にテレビをつけてたら、見たことある景色が流れた。ピンクだった。

ここらに住んでる人はみんな知ってるけど、ピンク一帯はいやらしい店じゃなく、表向きには「料亭」として営業してた。そこの従業員とお客さんが一目惚れしあって、自由恋愛としてセックスしちゃう、そういうめちゃくちゃなシステムで成り立ってた。警察は基本的に目をつぶってたし、大人たちはヒツヨーアクだって言ってた。でも、数年に一度、見せつけみたいに摘発があった。

画面にはあんたのお母さんがばっちり映ってた。売春禁止法違反 岩下千尋 三十五歳 ってあんたに生き写しみたいな顔した全身ピンクの女が、両手に手錠をかけられて、そこにモザイクがかかってて、両脇を警察官で挟まれて歩いてた。あんたのお母さん、実際は従業員やなくて経営者やったらしい。それにしても桃井って嘘の名字だったのかよ。本当は岩下って言うのかよ。

 

あんたはそれでも翌日学校に来た。

お前の母さん捕まってるやん、ハンザイシャの子供やん、桃井じゃなくて岩下やん、岩下でピンクって新生姜やん、あんたの机を囲んでみんなが好き勝手わあわあまくしたてた。

でも、あんたは一言こう言った。

「かみさまがいるもの」

「かみさまなんておらんよ、かみさまなんかおったら摘発されるわけないやん」

タムラが言った。こいつは普段テストで五点とか取るあほだけど、今回はちょっと冴えてた。

「お母さんは生贄にささげられた、かみさまはそれを祝福される、なにが悪いの」

あんたはまた口だけ動かして、一息にしゃべった。

「いけにえってなんなん」

タムラはやっぱりあほだったから、「摘発」は知ってても「生贄」の意味は知らなかった。あんたはそれっきり口を聞かなかった。わたしは人間が生贄になるなんて、そんなのグロテスクでおかしくない? ってふつふつ怒りがわいた。でもあんたをもっと責めるような気持ちにはなれなくて、口には出すのは堪えた。

だって、わたしがあんただったら、こんなことぜったい耐えられないと思ったから。

 

あんたは四時間目まできっちり授業を受けた。

ホームルームが終わったら、教科書をまとめてピンクのランドセルに入れて、つかつかと廊下を歩いていった。わたしはそれを追いかけた。あんたは靴箱からピンクのスニーカーを出して、おもむろにそれをひっくり返した。一個や二個じゃなくて一箱ぶんくらいある画鋲がばーっと落ちてきた。金色がちらちら光って不謹慎だけどちょっときれいだった。あんたはさらにそれを軽く振って、中身をからっぽにしてから、ピンクの上履きを脱いだ。帰る。今やと思った。

「あんた、ちょっと話さん?」

と、わたしは言った。

「ええよ」

と、そっけない言葉が返ってきた。わたしたちは校庭にある鉄棒のところに行った。そこはグラウンドの一番奥で、放課後に鉄棒の練習なんてするやつはいないから、ちょうどよかった。

 

「あんたなんで全身ピンクなん?」

「あんたなんでピンクのゼリー飲んでるん?」

「あんたのお母さんなんでピンクで働いてるん?」

「あんたなんで名字もピンクにしてたん?」

そこまで言うつもりはなかったのに、わたしはマシンガンみたいにいままで思ってたこと全部しゃべった。あんたはなんにも答えなかった。代わりにしゃがみこんで、そこに落ちてた枝で地面に、

「かみさまがいるもの」

って、書いた。

またか。いっつもそれ。むかむかした。あんたひとりのことすら幸せにできないかみさまをなんで信じてるん、気づいてるんやろ? わたしはあんたから枝をひっつかんで、その文字から、か、み、さ、るを斜め線で消して、

「   まがい もの」

にしてやった。わたしはこういう言葉遊びが得意だったし、このセリフは耳にタコができるくらい聞いてたから、意地悪はすぐできた。

それでもあんたはなんにも言わない。わたしはあんたは脳みそからっぽのふりしてるんやって思った。あんなに難しい言葉つらつらしゃべれるくせにかみさまのせいで思考停止してるんやって思った。

かみさまのせいで全身ピンクに染められて、学校中で孤立して、給食も食べられなくて、お母さん逮捕されて、偽名まで使わされて。

「愛真教がなんなん? フォーチュンラブ様がなんなん? そんなん信じるくらいならわたしがあんたのかみさまに、違う、かみさまなんていない、しょうもないから、わたしがあんたの偽物のかみさまになってあげる」

って、叫んだ。

 

あんた、そしたら泣いた。

いままでどんなにひどいことされても言われても顔色ひとつ変えなかったあんたが、顔をくしゃくしゃにしてぽろぽろ涙を流した。それは頬をつたってあんたのスカートにぼとぼと落ちてピンクをより濃いピンクに変えた。

あんたはわたしを見て、

「ありがとう」

と、言った。それがなんだか無性にむかついて、

「偽物のさらに偽物に感謝してどないするん、このあほんだら」

って、もう一回叫んだ。

あのときわたしは、すごくすごくすごく正気だった。あんたは泣いて泣いて泣いた。

しゃくりあげながら、桃井って名字は嘘だけど、愛はほんとの名前ってちいさく呟いたから、わたしはあんたのこと、愛って呼んだ。